友だちが一人もできなかった爆笑問題 太田光の孤独だが笑える高校時代のエピソードまとめ

お笑い

爆笑問題 太田光の孤独だが笑える高校時代のエピソードをまとめてみる。

ひとりも友達がいなかった3年間

中学まで、明るい性格だった太田だが、高校に入ると、友だちがひとりもできず、3年間ほぼクラスメートと会話することがなかったそうだ。太田の中で3年間の記憶は抹消されているようで、当時の同級生は自分のことをどう思っていたんだろう?聞いてみたいと話している。

ー普通なら「青春」ってヤツを謳歌しちゃったりする年頃じゃないですか。なぜそうなってしまったんでしょう?

太田:何でかっていうのは、今でもよくわからないんです。ただ、入
学式の日に誰とも話さなかった。ポイントはそこだけなのかな。

ーそれは、話しかけたいと思う、面白そうなヤツがいなかったということですか?

太田:いえ、まったく自分側の問題ですよね。本当に高校に入って1週間ぐらいは、「そのうち友達できるだろ」って思ってたんです。でも、恥ずかしいっていうか、照れくさいっていうか、自分から「ねえねえ」っていうのが、どうしてもできなかった。それができなくても小学校、中学校っていうのは子供だから、向こうから取り込んでくれるというのがあったじゃないですか?「ねぇねぇ」ってね。でも、高校では俺に「ねぇねぇ」って言ってくるヤツがひとりもいなかったんです。ほんと、それだけがポイントだったと思う。(爆笑問題 太田光自伝より)

ちなみに、同じ高校に不登校の生徒もいたらしいが、太田は、彼らが学校の不満を口にすることを嫌っていたらしく、あえて学校を休むことなく、3年間、皆勤賞を達成したそうだ(笑)

図書館にこもり、文学に目覚めた

学校にひとりもしゃべる相手がいない太田は、図書館に通いつめ、島崎藤村にはまり、なんと全作品を読破したのだという(笑)太田は、藤村作品をこう振り返っている。

太田:読んだ事がある人は解ると思うが、島崎藤村の書く小説は、とても若者が読んで面白いものではない。内容は、きわめて地味だ。その作品の殆どが、私小説といって、藤村自身の人生をそのまま小説にしたものが多く、初めから終わりまで、主人公は、何だかよく解らない事で悩み続けているー中略ーとにかく今じゃとても読む気になれない作品ばかりだ。今考えると不思議でしょうがないが、当時、私は藤村に夢中だった。その作品を全て、読破した。こんな高校生は、いないのではないか。友達が一人でもいたら、こんな事は出来ない。(太田光「三三七拍子」より)

さらに、太田は藤村を読破するだけでなく、高校2年生の夏休みに島崎藤村の墓参りに長野県へ行ったそうだ(笑)山道を延々と歩き続け、草むらを抜けた先に藤村と、その兄妹の墓を見つけ、太田は無性に感動したのだという。

友だちにまかれた修学旅行

高校時代、太田が一番憂鬱だったのが、九州への10日間の修学旅行。どうせ、一人だし、どれほど時間を持て余すんだろうと、太宰治や亀井勝一郎の本を10冊以上持っていったのだという(笑)しかし、長崎で、一日グループ別での自由行動という日があり、太田は先生に決められ、ある仲良しグループに入れられたのだという。しかし、事件が起きる。

太田:先生から私を押しつけられたグループの連中は、のこのこと後ろからついてくる私の存在が邪魔だったのだろう。私が、何かに気を取られたすきに私を置いてどこかに行ってしまった。方向音痴の私は、長崎のど真ん中で、取り残され、焦った。何とかグループに追いつこうと方々走って探してみたが、見つからない。そのうち、本気でまかれた事を悟った私は探すのを諦めた。宿には、何とか記憶を頼りに帰れるだろう。そう思うと私は、タバコを買って喫茶店に入り、その日一日、本を読んで過ごした。(太田光「三三七拍子」より)

文化祭でひとり芝居を演じた

高校2年生の頃に挑戦したのは、文化祭での一人芝居。なぜ一人芝居なのかというと、太田は、その高校でたった一人の演劇部の部員だったからだ(笑)太田は、堂本正樹の「ナイロンの折鶴」という作品で一人芝居をしたのだという。

太田は、文化祭初日の舞台は失敗したが、二日目は、廊下に立ち見がでるまで客が入り、自分が演じた芝居の中で最高のものだったと語っている。

太田:その芝居は今振り返っても完璧だった。だから、自信ありますよ。その時、俺のひとり芝居を観てくれたヤツは、それ以降も「あれ以上の芝居を観たことないだろう」っていうね。ただ、先生だけは相変わらずラストの暗転のキッカケをまったく忘れてやがったんです(笑)。最後に俺が死んで暗転という流れだったのに、いつまでたっても暗くなんねぇから、「まだかよ、終われないよ」って。しょうがないから、それまで死んでいたのに、急に立ち上がって「ありがとうございました」って言いましたけどね(笑)(爆笑問題 太田光自伝より)

孤独を救ったピカソの絵

3年間、友だちが一人もできず、徐々に感情の起伏を無くし、食べ物も味がしなくなったという太田。そんな太田を救ったのが、ピカソの「泣く女」だった。

太田:結局、3年間、心は開かなかったけど、キッカケならありました。それはピカソの絵なんです。当時の俺は、小説や演劇だけではなく、絵画にも興味を持っていたんですよー中略ー高2の時、竹橋の近代美術館でピカソ展が開かれたんですね。そこで観たのが「泣く女」です。その絵を観た時に、急にスッと楽になった。ほら、ピカソの絵ってぐちゃぐちゃでめちゃくちゃじゃないですか。でもピカソには自分が見えたままに描いているんだろうから、それは真実なんだと思った。そのピカソなりの真実をそのまま描いたっていうのを感じた時に、「ああ、何でもありじゃん!」っていう気がしたんですよ。(爆笑問題 太田光自伝より

こうして、感情と取り戻した太田は、映画監督を目指し、日大芸術学部を受験。高校3年間の鬱憤を晴らすために、受験当日から騒ぎまくり、皆に話しかけまくったという。その日大へ、野球のユニフォームで受験に来ていたというのが、後に相方となる田中裕二だ。

タイトルとURLをコピーしました