爆笑問題が、デビュー3年目にして大ブレイク目前の最中、業界を完全に干された理由、そして復活し再ブレイクするまでのエピソードをまとめてみた。
爆笑問題、デビュー
初めてのネタ披露で、即スカウト
1988年、日大芸術学部で知り合った太田と田中がコンビを結成。
コント赤信号の渡辺正行が主催するラ・ママ新人コント大会に初出場した際に、爆笑をかっさらい、その場で太田プロからスカウトを受け、正式に芸人の道を歩みだした。
当時のネタについて、太田は著書でこう語っている。
太田:俺らのネタは15分ぐらいのものだったんだけど、最初から最後までウケっ放しだった。もうね、あの時以来今まで、「あんなにウケたことはねぇ」って言い切れるぐらい、ウケました。(爆笑問題 太田光自伝 より)
スカウト後、すぐにお笑い第三世代の、ウッチャンナンチャンらとのコント番組「笑いの殿堂」のレギュラーが決まった。
ちなみに、当時から太田光は、ほうぼうで「ウッチャンナンチャン」は面白くないなどと陰口を言いまくっていたが、態度を全く変えず優しいウッチャンナンチャンをどれだけできた人たちなんだと思ったらしい(笑)
2年目、ビートたけしのオールナイトニッポンで事件!ニッポン放送出入り禁止へ
「ビートたけしのオールナイトニッポン」で、ビートたけしが不在時に、当時2年目の爆笑問題が代役を務めた。
基本的にたけしの代役は、たけし軍団のメンバーの中からと決まっていたところを、2年目の爆笑問題が抜擢されたことは超異例だったという。
「太田くん、何でも言っていいから!盛り上げてよ!」とディレクターに言われた太田は、生放送で、「ビートたけしは死にました」と発言。
リスナーから、大バッシングされ、番組スタッフは皆別部署へ、飛ばされたという。
この時点で、2年目の爆笑問題は、まずニッポン放送を出入り禁止となる(笑)
2年目、フジテレビ伝説のプロデューサーと大喧嘩!
太田プロは、爆笑問題に業界で箔をつけるために、「オレたちひょうきん族」や「笑っていいとも!」を手掛けた故:佐藤義和プロデューサーに単独ライブの演出を依頼。
事務所が仕掛けてくれたせっかくの機会だったのだが、太田は佐藤プロデューサーと演出をめぐって、大喧嘩をしてしまったのだという。
太田:俺らが太田プロ辞めるちょっと前に副社長から業界的に箔をつけるために、下北沢で2回目の単独ライブをやるときに佐藤義和プロデュースでやろうっていう話があった。その時、俺は若いし業界中にかみつきまくっていた。副社長から言われたからとりあえずやりますと答えたが、「ネタには一切口出しされたくない」っていったの。またよく言うよ、2年目の若造が(笑)当時、佐藤義和プロデュースとあれば、業界中が注目する力があったからね。
(爆笑問題カーボーイ)
「俺の目の黒いうちは、二度とフジテレビに出れると思うなよ!」
太田:ネタはいじんないけれども、最初にいろんな職業のユニフォームを着たモデルがファッションショーのように出てくる演出にしたらっていうんだよね。ただ当時の俺からすると「ふざけんじゃねえ」って感じなんだよな。当時の俺がやりたい世界観とは全然違うから。ちょっと考えさせてくれと言って。そんなね~、受け入れればいいじゃない!(笑)
田中:本当、そうよね!若いっていうのはそういうこと。それがいいところでもあるのよ。
太田:やんないのか?って佐藤さんに言われて、おれはできないって言って拒否したんだよな。当時、佐藤さんも尖ってたから、「分かった。じゃあ俺の名前は出すな。」もうさ~、俺もよせばいいのに。今考えるとよくあんなことを!(笑)
(2021年4月 爆笑問題カーボーイ)
ということで、爆笑問題が干される前に、すでにフジテレビの大物プロデューサーからは、出入り禁止を言い渡されていたのだ(笑)
3年目、大ブレイク目前にして、太田プロを独立し干されるまで
瀬名マネージャーにそそのかされ、干される
太田プロ在籍時代の、ビートたけしを担当しており、「たけしは俺が育てた」と豪語していたのが、瀬名マネージャー。たけしには「そんなやつ知らない」と言われているので、でまかせだったのだろうが、そんな瀬名マネージャーに、若き爆笑問題はそそのかされ、事務所を独立してしまう。
太田プロ時代、同期だった松村邦洋が語るエピソード 事務所の大混乱
松村:当時の爆笑問題のマネージャーの瀬名さんっていうね人が、スパイシーフルーツっていう会社をつくって、そこに爆笑さんを連れてっちゃた。辞めるっていうんで、下北沢駅前劇場で、皆で思い出を語りながらやりましたね。辞める前日に太田さんから電話があって、「実は辞めるんだ」って。驚いて、シャワー出しっぱなしで、劇場にいっちゃって。事務所に借りている家が水浸しになったんですよ(笑)その翌日に爆笑さんやめちゃったから、事務所から、(水浸しにしたこと)怒られなかったんですよ!(笑)事務所は大損害なんですけど(笑)
(爆笑問題カーボーイ)
松村:事務所、行って「水浸しにして、すみません!」って言ったら、「あ~、今、それどころじゃないから…」って言われて(笑)「何かあったんですか!?」って言ったら、「いや、それどころじゃないんだ!!」って。
(2021年4月 ダウンタウンDX)
太田が、のちのち聞いたことらしいが、当時、爆笑問題は全局で冠番組がスタートすることが決まっており、太田プロとしても非常に大事な時期だったのだという。
爆笑問題、完全に業界を干されバイト生活へ
太田プロより、芸能界に号令がかかり、瀬名マネージャーと爆笑問題は干された。瀬名マネージャーはというと海外に逃げ、爆笑問題も仕事は全くなくなり、太田光は家でずっとゲーム。田中裕二と太田光代はコンビニでアルバイトをしていたという。
ちなみに、田中裕二は、コンビニでお客さんがカゴにいれる商品を見るだけで、合計金額をすぐ弾きだせたという話や、仕事がなくても、草野球ができるから、楽しいからとのほほんとしていたなど、異常なエピソードがいくつもある(笑)
そんな爆笑問題だが、救いの手を差し伸べてくれたのは、NHKとテレビ東京だったという。業界では、NHK、テレビ東京は、芸能プロダクションの圧力の外側にいる存在のようで、太田プロより干されていた期間も気にせずに、たまに番組でつかってくれていたことから、今でも恩義があるのだという。
賞レースを総ナメにし、再ブレイク
1993年、太田プロより事務所に戻ってきて良いと許しが出るが、太田は、戻りたくないとの一点張りだったそうだ。そんな最中に出場したのが、NHK新人演芸大賞だ。
NHK新人演芸大賞
大賞は、必ず落語家がとるということがお決まりだったNHK新人演芸大賞だが、爆笑問題のネタの客のウケが圧倒的だったらしく、審査の結果、初めて、落語家ではなく芸人である爆笑問題が大賞をとった。
そして、この大賞受賞をきっかけに、光代は太田プロに戻りたくないなら、個人事務所を立ち上げるしかないと決断。太田プロに過去の非礼を侘び、事務所設立の許しをもらったのだという。ここから、再度、爆笑問題の快進撃が始まる。
GAHAHAキング10週勝ち抜き
GAHAHAキングとは、審査員5名、一般審査員100名が審査を行うお笑い勝ち抜きバトル。10週勝ち抜き、初代チャンピオンとなった爆笑問題。2代目チャンピオンは、当時天才と謳われていたフォークダンスDE成子坂。3代目は、ますだおかだである。ちなみに、くりぃむしちゅー(当時、海砂利水魚)などは、4週勝ち抜きでチャンピオンになれず敗退している。
干された爆笑問題を助けた人たち
TBSプロデューサー 桂氏
このGAHAHAキングだが、TBSビートたけしの「風雲たけし城」などで知られる伝説的プロデューサーである桂氏が、干されていた爆笑問題に電話をかけ、「お前らもう出てもいいんじゃねえか?」ということで、出演が決まったのだという。
松村邦洋
爆笑問題の事務所独立後も、太田にしょっちゅう電話をかけていたのが、同期の松村邦洋。太田に新ネタができたんで聞いてください!と言って、電話越しにネタを聞かせてたのだとか。そんな松村だが、ある日、太田に言ったのが、「太田さん、仕事選ばないでください!」当時、自分のやりたい仕事が来ず、くさっていた太田光が前向きになれた言葉だという。
島田洋七
爆笑問題が優勝したGAHAHAキングの審査員。爆笑問題の漫才を「ビートたけしより明らかにハイレベル。見たことがない。」と絶賛した。
放送作家 高橋洋二
爆笑問題がタイタン設立時、タモリ倶楽部やボキャブラ天国などを手掛けていた放送作家。第一回タイタンライブを見に行った高橋洋二は、すぐに自身が作家を務める「タモリ倶楽部」のゲストMCに爆笑問題を呼んだのだという。当時の芸能界の空気感を高橋はパンサー向井のラジオ「向井と裏方」に出演した際に、こう語っている。
高橋:タイタンを設立して、NHKでも賞を獲ったし、GAHAHAでも10週勝ち抜いて、さあ、やるぞっていう時までは、やっぱりね(笑)他のお笑い番組は忖度して手を出さなかったっていうのがあるんですよ(笑)タモリ倶楽部を作っている制作会社さんは、お笑いプロパーの制作会社さんではないんですよね。音楽番組とか、料理番組とか。なので、当時のお笑い界の雰囲気とは無関係にキャスティングできたんですよ(笑)。
向井:やっぱり、ちょっとアンタッチャブルな雰囲気はあったんですね!だけどタモリ倶楽部は関係なかった。
高橋:そうですね。関係なかったの。(「向井と裏方」)
こうして、爆笑問題が再ブレイクするきっかけをつくった高橋は、その後、正式に爆笑問題のブレーンとして、作家についてもらうことをタイタンより依頼された。その後、爆笑問題のほぼ全ての番組の作家として、寄り添い続けている。